ノルウェー人と紅茶

ノルウェーをはじめ北欧諸国は、圧倒的に「コーヒー党」です。
朝、起きてまずコーヒー。仕事中もコーヒー。来客にも当然、コーヒー。
北欧ミステリを読んでいると、登場人物のコーヒーガブ飲みぶりに「体、大丈夫?」と心配になるほど。

カフェ

タイトルは失念しましたが、10年くらい前に出版されたノルウェーの文化人類学者の本に面白い一説がありました。
ノルウェー人とコーヒーの関係を考察したもので、特に、田舎ではコーヒー以外は考えられない、と。
なので、田舎のお宅にお邪魔し、「すみません、コーヒー以外のものを頂けますか?」と頼もうものならば、主賓側はパニックに陥るほど、と書いてありました。
これは作者が実際にフィールドワークした結果のようです。
田舎に行けば行くほど、コーヒー以外の選択肢がない!というのが結論ですね。あ、水があった。

・・・ということで、コーヒーが苦手な人間は、ノルウェーではどうなんでしょう?
実は、ノルウェー伝道師を自称している割に、コーヒーが苦手なワタクシ。
ノルウェーのお宅に招かれて、「すみません、紅茶はありますか?」と尋ねる時の申し訳なさ・・・
普通のノルウェーのお宅には、「これいつ買ったんですか?」みたいなティーバッグがあって、それで何とかコーヒー以外の紅茶にありつけます。

一般のカフェやレストランでも、コーヒーの力の入れように比べて、紅茶の扱いは・・・「ぞんざい」です。
熱湯が入ったカップに、ティーバッグが添えられて運ばれてくるので、自分でティーバッグをちゃぽんちゃぽんする、という。それが●●クローネもするのはやり切れないですね~。
ちょっと高めのレストランだと、ティーバッグが恭しく木箱に何周類も並べられ、選ぶことができますが、どっちにしても自分で「ちゃぽんちゃぽん」行為は同じなのです。
ティーポットで出してくれるのは、本当にごくわずかな高級カフェくらいでしょうか・・・(あくまでも私の経験です)。

紅茶

そんなマイナー感が漂う「紅茶」ですが、ここ数年、変化の兆しをオスロでは感じることができます。
例えば、カフェで「Te,takk! 」(紅茶、お願いします)とオーダーすると、「Hvilken te? 」(どんな種類のお茶?)と確認されます。
おお~~~、teに選択肢ができたんだ~!
こういう風に確認してくるカフェは、通常の紅茶以外にgrønn te(グリーンティー)が用意されています。

オスロで面白いショップがカフェがあるグルンネルッカ地区には、たくさんのお茶が販売されている「お茶専門店」があって、「ここまで進化したのか~」と感涙にむせったものです(←ウソ)。

紅茶

紅茶専門店

しか~し、油断してはいけません!向こうで流通されているgrønn te(グリーンティー)は、日本で飲んでいる緑茶とは味が違うのです。
大手リ●トン社が販売している「Grenn Tea」のティーバッグは、オレンジやレモンなど柑橘類が混ざっているので、飲むとフシギな味わい。
ただ、「あなたが来るから、ちゃんとGrenn teaを用意したのよ」と、嬉しそうにそのティーバッグを出してくださるノルウェー人がいるので、そういう場合はありがたく頂きます。
間違っても、「これは違う!」などとプロテストしちゃダメですよ~。

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ノルウェー系移民 in USA~最終回~

・・・なんやかんやと4回にまで長引いてしましました。
今まで、「辛酸をなめた」ノルウェー系移民について、焦点をあててきましたが、アメリカで成功した人たちもいるのです。

まずは、Hubert Humphrey(ヒューバート・ハンフリー)。
彼は、アメリカのミネアポリス市長から、第38代副大統領に就任します(60年代)。
南ノルウェー出身の両親が、サウス・ダコタに移住したみたいですね。ちなみにヒューバートは、民主党所属でした。

もう1人、政治的な成功をおさめた人物が、Walter Mondale(ウォルター・モンデール)。
出身はミネソタ州。カーター大統領の時代に副大統領になります。やはり民主党に属していましたが、1984年、レーガン共和党候補との大統領選で敗れます。

余談ですが、モンデールさんのことをなぜか覚えているエピソードが・・・。
まだ初期の頃の「本の雑誌」に、なぜかデーブ・スペクターが連載を書いていて、当時のアメリカ大統領選について、モンデール候補のことを「彼はノルウェー系移民だし、さえない
みたいなことを書いていたんですよね。
・・・当時、まだ中学生くらいだった私は、ノルウェーに「開眼」していなかったのですが、「ノルウェー系移民=さえない」という刷り込みがされました~。
実態はどうなのか、単なるデーブ・スペクターの偏見なのか教えて欲しいです!

改めて、このブログを書くにあたりモンデール氏のことを調べたら、駐日アメリカ大使を務めていたんですね~。ノルウェー語で話しかけたかったなぁ(←あらゆる意味でムリ)。

さらに「華麗なる一族の祖」が実は、ノルウェー系だったことをご紹介しましょう。
世界中にある「ヒルトンホテル」。
そのHiltonの祖であるのは、August Halvosen Hilton(アウグストゥ・ハルヴォルセン・ヒルトン)だったそうです。
彼は、Hiltonホテルを築いたConrad Hiltonの父。ということは、パリス・ヒルトンにつながるんですね~~~!!(←ビミョー?)

今回のブログを書くにあたり参考にしたMøkehagenさんのインタビューを引用しましょう。
「August Hiltonは、16歳でKlføta(注:オスロから近いAkerhus)のHilton農場から、ミネソタへ移住しました。そこから1880年代、ニュー・メキシコへ移ります。この辺りはまだ”未開の西部”でした。ほぼ無法地帯で、Augustは商いを始めます。危険な目に遭うこともあったようですが、彼はいつも命拾いしていました。彼のルールは”武器を持たないこと。武器を持っていない方が、生き残れるチャンスが大きい”でした。」

ノルウェー人らしい!!

・・・ということで、ノルウェー系移民と一言でいっても、たとえ移住したところは偏っていたとしても、人生はそれぞれですね。

UiO

サマースクールを開講するオスロ大学

~その1~で触れた「オスロ大学のサマースクール」は、そもそも「アメリカのノルウェー系移民」のために創設されたのです。
自分たちのルーツ=ノルウェーを見てもらいたい、という計らいだったのですね。
今では、国を問わずたくさんの学生たちが参加しています。

長丁場になりましたが、ご清聴=黙読、ありがとうございました~。

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ノルウェー系移民 in USA ~その3~

そもそも「アメリカのノルウェー系移民」について取り上げてみたいと思ったのは、「その2」でも引用したAftenpostenの記事がきっかけです。
昨年、Sverre Mørkhagen(スヴァッレ・モルクハーゲン)がそのテーマで3巻もの大作を刊行したので、Aftenpostenが特集を組み、「ふ~ん」と読んでいたのですが・・・・

知らないことあった!!と興味深かったのです。

まず、ノルウェー系移民はウィスコンシン、ミネソタ、ノース・ダコタなど五大湖周辺が多いという事実は知っていましたが、実は都市部に移住していたグループもいたのです。
その場所は・・・ニューヨークのブルックリン地区。
以前にノルウェー人女性が、ブルックリン地区でパン屋さんを開き、繁盛しているブログを書きましたが、かの地とノルウェー人は何か縁があるのでしょうか??

さて、記事によるとブルックリンにノルウェー系移民が集まっていたのは、19世紀末、そして1950、60年代だったそうです。
そこでもノルウェー人たちは「自分たちのコロニー」を形成しました。ノルウェー人の店、美容院、カフェ、新聞、協会やクラブなど。
英語が特にできなくても、生活できる環境だったそうです。

国旗

ノルウェー国旗

モルクハーゲンさんのコメントで興味深かった点を挙げてみましょう。
こうしたアメリカ社会に溶け込もうとしない民族グループは、「本物のアメリカ人」(ってなんなのか良くわかりませんが)からすれば、「苛立ちの対象」となりえますが、ノルウェー系移民は他の同じような民族グループ、特にドイツ系移民に比べ、「それほど批判にさらされなかった」そうです。ドイツ系は特に世界大戦が影響していたようです。記事には言及はありませんが、日系移民にも同じことが言えるでしょう。

しかし、こうした「ノルウェー系コロニー」だけでの生活では、アメリカで「リッチになって成功する」は叶いません。
事業の成功には、まずアメリカ社会に「同化」し、アメリカ人と似たように振る舞う必要があります。
ですので「その2」でも引用したように、アメリカに馴染めなかったノルウェー人の手紙が資料として残っています。

ノルウェー系移民の貧困を裏付ける別の数字を挙げてみると・・・
ニューヨークにあった「貧者の家」の記録(1910-20年)に、そこで生まれたノルウェー系移民の子どもは454人にも上ります。
モルクハーゲンさんのコメントを再び引用すると、「貧困は際立っていました。死亡率も高かったようですが、その数字は私自身も他の人も把握できていません。」

・・・アメリカの地方でも都市部でも貧困だったノルウェー系移民。
ですが、成功を収めた人もいたのです!
(つづく)

ノルウェー系移民 in USA~その2~

さて人はどんな時に、母国を離れて外国へ移住するでしょう?
仕事、教育、結婚、または母国では安全が保障されないという難民もいます。
19世紀にアメリカへ渡ったノルウェー人の大きな理由は「貧困」でした。

19世紀のノルウェー。多くの人は農村で暮らしていましたが、土地を持っていた「地主」ではなく、小作人は条件の悪いわずかな土地を地主から借り、朝から夜遅くまで働いても貧しいまま。
そんな悪条件の農村でも、徐々に機械化が進み、小作人は不要になってきます。
工業化が進む都市部(クリスチャニア=当時のオスロの名前)へ小作人たちは仕事を求めてやってきますが、そこでも待っていたのは「貧困」と「重労働」でした。
今では禁止されている児童労働が行われ、男性は工場、女性は女中になって働くケースが多かったのですが、長時間労働と低賃金で富裕層たちに搾取されます。

そんな貧しい人々にとって、「アメリカへ行けばもっといい生活ができる」という謳い文句は魅力的に聞こえたことでしょう。
先にアメリカへ移住したノルウェー人から「アメリカは素晴らしい!」と手紙を受け取れば、「自分も行こう!」とナイーブに信じてしまうのも無理からぬことだったと想像します。
結果、1825年~1925年までの100年間、約80万のノルウェー人が国を離れます。その大半の渡航先は「北米」でした。
この数字だけではピンとこないかもしれませんね。
1850~1900年の間、ヨーロッパで国民一人あたりの離国人数は、アイルランドに次いでノルウェーが2番目に多かったのです。

渡米

渡米するノルウェー人

「その1」で書いたようにノルウェー系移民は、ミネソタ、ウィスコンシン、そしてノース・ダコダに集まりました。
アメリカへ行っても寒い土地に固まったのですね~。
では、アメリカでは本当に「いい生活」が待っていたのでしょうか??アメリカでの生活に適応できたのでしょうか?

もちろん、成功を収めたノルウェー系移民もいます。
しかしほとんどの人は、英語ができないため良い仕事につけませんでした。またアメリカ流に染まることよりも「ノルウェー人のコロニー」を形成していきます。
例えば、1910年、アメリカにおける「ノルウェー教会」の数は母国ノルウェーの2倍もの数があったのです!
つまり、アメリカ社会に適応するよりも、自分たちの組織やネットワーク作りに熱心だったことが分かりますね。
ではなぜアメリカ社会に適応しようとしなかったのか??
アメリカ系移民についての著書があるMørkhagen(ムルクハーゲン)の解釈はこうです。

「ノルウェー系移民たちは、アメリカ社会になじむにはあまりに道義的で率直過ぎた。特に政治的な場面では、信念を曲げても駆け引きが必要だったのに、それができなかった。」
(Aftenposten紙、2014年12月26日)

う~ん、やっぱりそうなのね・・・。なんか納得しちゃいます。
そして信心深いノルウェー人にとっては、アメリカは「モラルが堕落している」と映りました。若者たちのダンスでさえも議論の対象になったのです!
ノルウェー語のテキスト「Her på berget」には、新天地で失望したノルウェー系移民の手紙が掲載されています。
「英語ができないので、彼らに笑われるのがつらい」
「アメリカは偽りばかりで、だます人間が多い」
「皿洗いの仕事しかない。事務仕事を得るのは難しい」
「彼らの考え方は、私たちと全く違う」
「アメリカにいる女性は全然良くない。ノルウェーに戻ってちゃんとした女性と結婚したい」

・・・今、ノルウェーに住んでいる移民たちがこぼす愚痴のようですね・・・。
(つづく)

ノルウェー系移民 in USA ~その1~

最初に留学したVoldaカレッジのノルウェー語クラスには、アメリカ人留学生がいました。もう20年も前の話です。
すごく不思議だったのは、「なぜ英語とノルウェー語は似ているのに、こんなにノルウェー語ができないの??」という疑問でした。
いつまで経っても、たどたどしいノルウェー語を話す彼は、最後のコース修了の試験に落第。
先生に聞いたところ、「今まで、アメリカ人留学生で試験に合格したのはたった1人だけなのよ」と教えてくれました。

アメリカ人は、どこでも英語が通じるから外国語を学ぶのが不得手なの??想像をはりめぐらしました。

しかし私は、その考えを改めることになります。
オスロ大学のインターナショナルサマースクール(ISS)に短期留学した際(1997年、1998年)、アメリカ人の参加者が半数くらい占めました。
初心者レベルの学生もいれば、「この人、ネイティブ??」と思うほどハイレベルの学生と呼ぶには年齢が上の参加者がいて本当に驚きました。
ISS参加者の名簿が配られたのですが、アメリカ人学生たちの所属は「St.Olav College」という大学が目立ちました。
この頃、恥ずかしながら、「St.Olav」が何を意味しているのか分かっていなかったのです。
「St.Olav」またはOlav den helligeは、11世紀初頭、ノルウェーの「オラブ王」でした。彼はそれまでのOdin、Torといった「北欧神話」に基づく神様ではなく、キリスト教の改宗に踏み切ります。
改宗にあたっては国内で激しい反発があり、オラブ王は戦闘中に命を落とし、そして「聖オラブ」=Olav den helligeと呼ばれるようになりました。

・・・ここでちょっとSt.Olav Collegeに話を戻すと、「ミネソタ州にあるノルウェー系アメリカ人が創設」とWikiに紹介されています。
wiki:http://en.wikipedia.org/wiki/St._Olaf_College
大学のHPを見てみると、おお、ノルウェー語学科があるではないですか!
http://wp.stolaf.edu/norwegian/

話は変わりますが、ノルウェー語を勉強するにあたって悩ましいのは辞書選びです。
生徒さんによく「どの辞書がいいですか?」と聞かれますが、「Einar Haugen編著のNorwegian-English Dictionary」をお勧めします。
私が持っているのは、今は出版されていないノルウェーの「大学出版社」で出版されたものですが、今では日本のamazonで「Einar Haugen編著」の辞書が入手可能です。

ノルウェー語辞書

ノル-英語辞書・・・ぼろぼろです

ここで注目してほしいのは、版元はウィスコンシン大学出版だということ。

ミネソタとウィスコンシン。このアメリカのエリアの共通点は??
はい、両方とも19世紀にたくさんのノルウェー人が移住した土地です。
・・・ということで、今ではたくさんの移民が暮らすノルウェーですが、ノルウェー人が移民だった時代にさかのぼってみましょう~。
(つづく)