セレクトレッスン『ワーキングホリデー体験談』!

日本とノルウェーはワーキングホリデー協定を結んでいるとご存知ない方も多いでしょうか?
実はあるんですよね。なので、元生徒さんや現在の生徒さんで「ワーキングホリデー目的」にレッスンを受講して下さっている方がいます。
生徒さんたちや私も実感しているのは「情報の少なさ」!
ですので、何らかの機会でワーキングホリデーを終えた生徒さんに「体験談を語ってもらえないか?」と願っていましたが、ようやく7/4にセレクトレッスンという形で実現しました!

先日の「オスロ大学留学体験」と同じで、受講したいという方はすぐに集まりました!注目度の高さがうかがえます。
ゲスト講師はMさんという女性です。彼女はバリスタをされていて、富ヶ谷の「Fuglen Tokyo」のコーヒーを飲んでから「ノルウェーのコーヒーを勉強したい」とワーキングホリデーを決意されたそうです。そして準備の過程で、うちのノルウェー語レッスンも3か月ほど受講してくれました。

当日は私が質問し、答えていただくという形だったのですが、Mさんの「ここでしか聞けない」がとても勉強になりました。
家探しと仕事探しサイトのFinn.noは、ノルウェー語しかない。そこでMさんが取った大胆な行動は、みなさん「お~」と感動されてましたね。
また「渡航時期はいつがオススメ?」の説明も、ご自身の「失敗」があったからこそ説得力がありました!

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Mさんは結果的に、ノルウェーでトップクラスのJAVAというカフェで働けることになったのですが、強調されていたのは「雇用契約」の確認です。これはノルウェー語で何頁かあったしっかりしたものでしたが、Mさんのマネージャーはきちんと英語で説明してくれたそう。給与関係などのトラブルは残念ながら雇用主によって存在するようなので、これからワーキングホリデーを考えている人は、ぜひ参考にされることをお勧めします!

雇用契約がきちんとしたところでお店だからでしょうか。
労働待遇は、普通のスタッフと変わりなく長期休暇や各種手当があったそうです。あと「ノルウェー人は残業という言葉を知らない」という格言に笑いが起こります。
飲食業界って日本だと「残業当たり前」な風潮かと思いますが、そこはノルウェー。シフトが終わるとさっと帰るようです(でも効率的だったとおっしゃってました)。

高い技術を持った同僚と働き、待遇など満足されたそうですが、痛感されたのは「ノルウェー語力の必要性」だったそうです。
現地でノルウェー語学校に通ったり、また仕事を通じて覚えていったりと努力された様子がうかがえましたが、限られた職種以外はやっぱり必要なんだ~と思い知ったノルウェー語講師です・・・!

Mさんのお話を聞いていると「運の良し悪し」はもちろんあるかと思いますが、根底にはMさんの行動力や努力がそうした「運を引き寄せた」のかな~と感じました。
またきっとJAVAのみんなからも愛されたんだろうな~と分かりました。
というのも、Mさんが帰国する前にカフェのスタッフたちがサプライズを仕掛けて、とても素敵な演出の動画をFacebookで観たんですよね。惜しまれて帰国されたことが分かりました!

JAVAがMさんのために1週間出していた看板

JAVAがMさんのために1週間出していた看板

さらに在オスロの日本人ネットワークについても触れられ、「おいしい食事をご馳走になりました!すごく甘えちゃいましたね。」とのこと。
これは私も留学時に同じでした。在ノルウェーの方には感謝感謝です!

現在は「カカオ豆の焙煎に興味がある」と都内のチョコレートショップで働くMさん。
実はそのチョコレートは先週、Fuglen Tokyoで販売されていることを知り、びっくりしちゃいました。
日本とノルウェーを結ぶ架け橋が、少しずつ実っている~と感動です。

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さらにさらに大事なことは「なぜワーキングホリデーに行くか」という渡航目的を明確にすることでしょうか。この点はMさんも強調されていました。
海外に一定期間、滞在することにより「多様性」や「日本と違った常識、非常識」など視野が広がるかと思います。

いい面だけではなく、失敗談や大変だったことも聞くことができ、MさんにはTusen mange takk!と言いたいです♪
大人数の前で話すより、こじんまりした会の方がいいとのことでセレクトレッスンにしましたが、質問もしやすくいい雰囲気だったとこれまたMさんに感謝です~。

オスロの団地

先日、日本の新聞で「今、団地に注目」という記事を読みました。
団地を舞台にした映画や文学、マンガが増えている、と。また昔の団地をリノベーションする例もあるようですね。
ノルウェーの「団地」は?と考えてみたところ、まず思い浮かんだのが、drabantby(ドラバントビー)という単語です。
日本語にすると「ベッドタウン」「郊外の町」といった意味でしょうか。

第二次世界大戦後、オスロへたくさんの人々が引っ越してきました。地方では仕事が見つからないからです。
結果、住宅不足が深刻となり、今までなかったタイプの町づくりが進められます。
1950年代からオスロ東南部に、集合住宅=団地が次々と建設され、それらはdrabantbyと呼ばれるようになりました。

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ノルウェー語の語学書やネットで調べるとLambertseter(ランベルトセーテル)がオスロで最初のdrabantbyと定義されているようです。
”Stein på stein”という語学書には、一人の老人が昔を振り返るという体裁で、Lambertseterについて語っています。
「戦後、オスロへ移住し、同じ工場で働く女性と結婚したがひどい住宅不足だった。中心地の一部屋しかないアパートに住んでいたが、Lambertseterに引っ越すことができ、感動した。広く明るい部屋、キッチンとバスルームは専用、セントラルヒーティングまであったんだ!」

テキストからの写真。洗濯機を嬉しそうに見る家族。

テキストからの写真。洗濯機を嬉しそうに見る家族。

当時のLambertseterの様子は、Youtubeになぜかありました。インタビュー中のノルウェー語だと「若い家族が住めるような3部屋、4部屋の住宅と手ごろな価格帯を設定。住宅銀行と協力。当初、お店は一つしかなくて、みんなボランティアで周囲を整備していった。交通の便もほぼなかった」とありますね。面白いのでリンクを貼ります。https://www.youtube.com/watch?v=FfFXGxMb1NM

ちなみに最新のLambertseterの集合住宅広告を見たら、すごーくモダンになっていてびっくりです!
https://www.obos.no/symraterrasse#project

もうちょっとdrabantbyの歴史をネットで探すと1つの興味深い記事がありました(Dagsavisen、2015年11月25日)。
多くのdrabantbyの設計を手がけたのは、Frode Rinnan(フローデ・リナン)という建築家だったそうですが、彼はdrabantbyだけではなく、1952年オスロ五輪の設計にも数多く関わっています。ホルメンコーレンのジャンプ台やビスレットの競技場など・・・。
そしてRinnanは、drabantbyの集合住宅を「3階建までにする」という信念があったそうです。
理由は「妊婦にとって階段をたくさん上るのは大変だから」というもので、その時代にすでにそうした配慮があったのだな~と感心。
ただ朝鮮戦争の勃発後、資材が高騰してしまい、OBOS(オスロ住宅供給センター)が「4階建ての方が安く済む」とRinnanの反対を押し切って4階建住宅を建設したそうです。
他にもRinnanは、drabantbyは「緑豊かで、遊べる場所があること」を重視したとのこと。何よりも住民たちが快適に暮らせることを目指したようです。

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今でもLambertseterはありますし、他にもいろいろなdrabantbyが残っています。
あまり観光客は行かないエリアですよね。
私自身、中に入ったことは一度しかありません。元生徒さんが住んでいる団地は、築50年近くかと思いますが、予想以上に中がきれいで間取りも広かったです!(リフォームはされたようです)
場所にもよりますが、バスや地下鉄は通り、スーパーや医療センター、銀行や子どもたちの公園が揃っていて、そのdrabantby内だけで生活できるエリアも存在します。

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私が「ノルウェーらしい」と感じたのは、ちゃんとテーブルや椅子が置けるバルコニーがあることでしょうか。これは「マストアイテム」なのかもしれませんね。

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観光だけだと行かないエリアかと思いますが、オスロの町の発展を語る上で欠かせないのがdrabantbyだと思います!
日本の団地との比較も面白そうですね~。

補足:ヘルシンキとエストニアのタリンに旅行した際、いかにも「無機質な感じの団地群」を見て驚きました。ロシアに近い方がそういう建物になるのでしょうか??